そろりさん
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これ喋りだすと切がないですよ。
とりあえず音を素材とした芸術と言っておきましょう。
2009年02月07日 06時17分10秒

そうですね。きりがない、正解のない問題ですが、かえって、われわれ音楽を聴くだけの人間のほうが気になる問題なのかもしれませんね。
2009年02月07日 12時55分13秒

でも考えるのは頭の体操になりますね。多分人間の哲学活動の一派でしょう。
でも今度は芸術とは何ぞやですね。日本人は良くここで誤解しますが、娯楽や気休めや慰めやレクリェーションではありません。
2009年02月07日 17時33分04秒

「そろり」さんぇ
お友達登録の申請ありがとうございます。
今プロフィールなど確認し、登録しましたので、あらためて宜しくお願いします。
音楽ですか・・・
以前にもどこかで申した事がありますね・・・
音楽は、音ですね・・・音は物理です・・・物理は数学です。
加え音楽史にもあるように歴史でしょうか。
大学の先生をされておられたと言うことなので、こういった意味合いご理解して
頂けると思うのですが、でも本当にそうですよ、音楽は物理であり数学です。
そこに、聴く人たちの感情と言うか、喜怒哀楽を表現する標題音楽と言うか・・・
そういった分野を体系的に理論付けしたのが楽典などに出てくる「音楽形式」
ではないでしょうかね・・・
あの通り音を組み立てると、なんとなくそのように聴こえますからね・・・
ではまた。
2009年02月07日 17時57分43秒

ああだからそろりさんはこういう哲学的学問的話題がすきなのですね。でもこのままでいいのではないのでしょうか?
音楽は物理であり数学です。
・・・・・・・・・・・・
唯物論的にはね。でもそれでは一辺倒。何も出てこない。今は芸術とは何ぞやに持って行きたいですね。
音楽形式はありますよ。それよりも仕事大丈夫?
2009年02月07日 18時11分00秒

その言葉をかりて・・・
「唯物論」的な中に「美」を見出す・・・それが音楽芸術ではないでしょうかね
学術論的に、論題をまとめてみました・・・
私のところにも、書き込んでくださいね・・・
仕事はね・・・「成ってくるが天の理」・・・?
ではまた。
2009年02月07日 19時44分02秒

学術論的に、論題をまとめてみました・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その場所は知りませんよ。
ここでは物理学ではなくて芸術学を言っているのでしょう。音楽の物理的現象はわかりますが、それだけの話。要は何を持って芸術かが重点でしょう?物理的にどうのこうの言ってもここでは何も出てきませんよ。ここでは頭を切り替えるのが必要です。
2009年02月07日 19時55分58秒

菅野様、村上様
そうですね。物理的形式の中に反映されているらしい美ないし芸術とは何か、が気になりました。それは、ミクロコスモスとしての人間の精神の中をさぐるためのゾナー装置ではないか、と考えましたが、なお考えます。いろいろありがとうございました。
そろり
2009年02月07日 21時21分41秒

物理現象そのものは正しいです。でもその何を持って芸術というのかは物理そのものは冷たいですから多分出てこないでしょう。私たちがこうやって感じることは伊東乾君のように頭の中の化学反応と見て東大で頭に電極貼って毎日研究する人がいますが、とてもそれだけとは思えないくらいに複雑ですね。
音楽も確かに楽譜には書かれているのですが、音響的にはそれ以外の現象が追加されていますしね。予め予定された現象と偶然の産物が混合しています。
2009年02月07日 22時26分37秒

●音楽芸術の芸術性についての考察
一例を、映像と音があった方が分かりやすいと思い・・・
神尾真由子さんのバイオリン(語りと解説付き)
http://www.youtube.com/watch?v=i_IT_7hny5o&feature...
これを観て聴いて・・・「感じて」下さい。
主題部分がところどころに「変奏的」に現われる形・・・冒頭から変奏的に進行し
一つの区切りとしての解決に向かう流れ・・・
こういった「形式美(音楽形式)」が音楽芸術の芸術性を高め、不同の地位に
している一つの魅力でもあるのではないでしょうか・・・
最終楽章では、解説の通りですが、ピアノと同じ音形の進行で、後を追従する
ような進行、これは一種の「カノン風」の形式とも取れますが、こういった形式美
つまり、これも物理的な要素を含んでいますね・・・緊張と緩和それは、調整音
の配列に関係し、その配列を形式的な進行に沿って「音形」を形作りそうして
出来上がった作品・・・それが、聴衆に受け入れられるか、また排斥されるかと
言うような流れも事実あると思いますね・・・
私は、奏者的な立場ですから、出来上がった(作曲された)作品をどのように
理解し、解釈して音を奏でるか・・・と言う観点の見方が強くなりますが、立場を
置き換えると、指揮者や作曲家の立場から見れば、また違った考察がされる
のだと思いますが、如何でしょうか・・・
これ、よくまとまってるかな・・・
と思うので、自分のページにも、そのままアップしようっと。
ではまた。
2009年02月07日 23時34分56秒

そろりさんは年配の方ですね。ちゃんと経歴見てないので失礼いたしました。
そろり・そろりとやってくるので多分若い神経質な方かなと勝手にお見受けしました。でも文章が面白いので勝手に僕も書き込んでいるわけです。
まだ村上君のチェロさえも時間がなくて見れないですね。チラッと見たのが髪が長いということだけでした。
まあ言っているのはアナリーゼ的なことですね。でもこれをアナリーゼして、同じように作曲してみてもその様に行くとは限らないですね。それでも作曲するには傑作と思われる曲を分析するのですが、いくら学んでも良く失敗もします。そこが音楽のわからないところですね。機械などの新技術と違うところです。必ずしも人のテクニックを使ってもそれはただの物真似。かえって批判されるだけですね。
2009年02月08日 01時23分16秒

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音楽とは何か
デュアメルは、大体、3つの音楽観を提示しているようである(同氏著、慰めの音楽、白水社、1963年、第1章 ヨーハン・セバスチャン・バッハと純粋音楽についての論議、とくにその、PP.18−20、およびpp.39-39)。4つ目は、私、そろり自身の音楽観です。
1 「表現」としての音楽: 「人間の魂を揺り動かす大いなる情熱、---- を表現するものとして、すべての芸術の中で音楽以上に適切なものはない。」(デュパルク)。たしかに、標題音楽における小鳥や時計の音、あるいはロマン派音楽における美や愛や情熱の表現など、音楽は人間の情熱や自然界のある音などを表現するものだ、と定義するのは、一理ありそうですね。
2 「秩序(を打ち立てること)」としての音楽:ストラビンスキーによれば、「私は、音楽というものは、その本質からいって、たとえばある感情、ある態度、ある心理状態、ある自然現象等々を表現する力はないものと考える。「表現」は、いまだかって音楽の内在的特質であったためしがない。------ 音楽という現象は、ただ事物の中に、そしてなかんずく人間と時間との間に、1つの秩序を打ち立てるためにのみ、われわれに与えられているのである。」
3 「ひろびろと開けた殿堂」としての(純粋)音楽: これは、デュアメルが彼の好きなバッハとの関連で展開する音楽観である。「成熟した人間、追憶と出来事とを一杯に担った人間は、そこに彼自身の夢が落ち着くことを許された壮麗な、広々と開けた殿堂を求める。---- バッハは私に何一つ強要しない。---- わけても彼の純粋音楽においては。------ 彼は私が安らかに歩き回ったり、まどろんだり、自分の思念や、苦悩や、喜悦や、欲望を高まらせたりすることのできる、殿堂を提供してくれる。」 これもよくわかりますね。バッハは、喜怒哀楽そのものを表現したりするのではなく、人間(聞き手)の苦労やいろんな感情をそこへ下ろして聞き手を安らげてくれる殿堂、ないし壷であるともいえましょう。
4 人間の心の闇ないし無限空間(意識と無意識の全体)をさぐるための、潜水艦におけるゾナー装置のようなものとしての音楽:私見によれば、バッハも、モ
ーツアルトも、ベートーベンも、たんなる表現でも、たんなる音の秩序でもなく、または、聞き手の人間的苦労や感情をそこに下ろして安らげさせてくれる殿堂だけでもなく、人間とは何か、あるいは、人間において新しく発見しうる面白いものが何かないか、を探索するためのゾナー的探索装置である、と「そろり」は信じたい。それは未知なる物を人間の深みの中で探求する手段であり、そうでなければ、最近の現代音楽、やすらぎなんて「とんでもない!」、秩序なんて「とんでもない!」、表現?いったい何を?!という現状を、適切に理解できないのではないでしょうか。音楽作品とは、人間の未知なる心理空間をさぐるための音波発射音源であり、自己探求のためのゾナー装置ではないでしょうか。ひるがって、バッハやベートーベンなどの古典音楽もそういえるのではないでしょうか(そろり説)、大きな問題についての大それた妄言(であれば)ごめん!
室内楽 作曲家