
椰子の実さん
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<<第三の手紙>>実は第二の手紙まででは最も重要なことを話してなかったのでこの第三の手紙の登場となる。<モーツアルトの魔笛に取り組む原動力はなんであったのか?>である。「フリーメイソンが何たるかを折り込みたかったのだ」というのは正解ではあるがそれでは30点。その取り組み意欲、情熱はどこから来たのかを知らねばならない。まずそもそも何故モーツアルトはフリーメイソンへのめり込んだのか?それを理解するためには4つの事情を知る必要がある。まず第一点目はフリーメイソンとは何かを知ること、第二点目はモーツアルトの少年期から青年期にかけての宮廷/教会との葛藤を知ること、第三点目はモーツアルトのウィーンでの家計事情、第四点目は当時の政治権力機構とフリーメイソンとの関係を、そしてその中でのモーツアルトのフリーメイソンでの活動を知ること、である。
<第一点目:フリーメイソンとは>本来数冊の本でも語りつくせないテーマを十数行で語る冒険を冒すなら以下の通り。フリーメイソンとは本来、中世の城砦、教会建築の建設を担ったプロの石工の組織であり、多くの小国で割拠されていたヨーロッパの国境を越えて現場を渡り歩く集団であった。石工は徒弟、職人、棟梁の3段階で技量レベルを評価されるが識字率が低く、経歴書が書けない彼らはその技量・職位を現場責任者に証明するためにそのレベルのものしか知らない秘密の合言葉や特殊な握手法を使った。17世紀の絶対王政時代に啓蒙思想が知識層に芽生え、広まっていったが権力からの規制を逃れるため彼らには安全な情報交換の場を必要とした。そこで目を付けられたのがこの石工組織の仕組みで、この仕組み(秘密の合言葉、奇妙な握手法)をそっくり使って啓蒙思想家たちは 独自の石工ギルド、フリーメイソンを組織化し、啓蒙思想活動を行った。本来の石工組織を実践的フリーメイソンと呼ぶなら、そのカムフラージュ用の石工の衣を着た啓蒙思想家たちの石工組織は思弁的フリーメイソンと呼ばれる。このカムフラージュ用の衣を強化するために幾つかの伝説が用いられ、そのひとつがソロモン王時代に遡るヒラム・アビフ伝説(ソロモン王が絶大な信頼を置いた大棟梁)で、その後も多様な衣替えが試みられ、魔笛の舞台にピラミッドが登場するのはエジプトに起源を求めるエジプト派フリーメイソンの影響であろう。換言すればフリーメイソンとは時の権力、官憲から啓蒙思想家及び予備軍の情報交換の場を守るための器であった。そうした性格から発足以来、多くの思想家、政治家(初代以降のアメリカ大統領含む)を始め産業界、文化人たちも会員となってきている。魔笛にも<沈黙>という言葉が多数出てくるのは、フリーメイソンでは権力・官憲から組織を守るため会員情報は絶対沈黙せねばならないからで、タミーノとパパゲーノの沈黙の試練の本来の目的はそこにある。多分に女はおしゃべりということはあるにせよ、本来、女としゃべってならないという舞台での沈黙を額面通り受け取るのは間違いで、これはシカネーダーが行った台本での幾つかのすり替えのひとつである。魔笛第二幕の僧侶の二重唱を本来の歌詞に書き換えてみよう。「権力からの密偵に気を許すな。まずこれ、沈黙を守れ。賢い会員さえ、あまた、あまた、騙された。接触してきたときはよくとも終わりは使い捨てになり、裏切り者の辱めを受けて、あわれ最後はその身を滅ぼす。」これはフリーメイソンでの入会儀礼の際の守秘義務会則の順守を徹底するための説法である。
<第二点目:青少年期の宮廷/教会との葛藤>
モーツアルトはザルツブルクで生まれたが、この町は宗教都市であり、ローマ教皇任命の大司教が統治しており、コロレード大司教は6歳児にして宮廷で御前演奏し、皇后マリア・テレジアから報償を得た神童モーツアルトをなんとか自分の管理下で使いこなそうとしたが、本来自由奔放な精神に生まれついたモーツアルトは意に沿わない音楽活動の強要に我慢が出来ず、その召使扱いの束縛からの脱出を試みた。理解者の父レオポルト(副楽長)はモーツアルトをつれてヨーロッパ各地に演奏旅行をしているがその期間は6歳からウィーンに移り住む25歳までの間の9年間に及んでおり、これはコロレード大司教の音楽活動に対する規制を逃れるためであり、ヨーロッパのいずれかの自由な都市に宮廷楽長としての職位を得るためであった。勿論この演奏旅行をも快く思わないコロレードはモーツアルトをごろつきの若造呼ばわりをし、モーツアルトもコロレードを馬鹿君主呼ばわりをして、訪問中のウィーンで二人は大げんかすることになり、調整を試みたアルコ伯爵に足蹴りを食うエピソードまで発展し、その結果、モーツアルトはザルツブルクを捨て、1781年(25歳)にウィーンに移り住むことになる。モーツアルトにとってこのコロレード大司教即ち政治、社会、宗教の権力者は人生最大の敵であり、自由都市ウィーンへ移って以降の生活でコロレード大司教を象徴とする絶対君主に対する敵意がそのまま自由啓蒙思想と向かうのも時間の問題であった。そして自由啓蒙思想の交流の館、フリーメイソンに入会するのは3年後の1784年、28歳のときである。ところでモーツアルトの音楽の生みの親は彼が最も憎んだコロレード大司教であるという皮肉な見方があるが、高純度のダイヤモンドの原石も削られ、磨かれての研磨プロセスを経て素晴らしい七色の輝きを生むがコロレード大司教はその厳しい研磨機であったということだ。
<第三点目:ウィーンでの家計事情>
宮廷の所有物であった音楽は、それで飯を食うには宮廷で職を得ることが必須であったが、ウィーンでは身分・収入を保障する宮廷楽長等の職を得ることが出来なかったモーツアルトは予約音楽会という現在のチケット販売と同様のビジネスモデルでコンサートを開催し、収入を得ることで生活を維持した。またフリーメイソンの会員は貴族、実業家、文化人が多かったことから予約コンサートの観客の30%はフリーメイソンの会員であり、またフリーメイソンで知り合った貴族や資産家から援助を得るということも多かったに違いない。すなわちフリーメイソンはモーツアルトにとって心の癒しであり、財布の癒しでもあったわけだ。このフリーメイソンの館からの観客を大事にし、また彼らの期待に沿うサービス(作曲、オペラ)がモーツアルトにとってフリーメイソンへ報いることであり、またそれにより良い評判を得ることにより一層の支援が期待出来たわけである。かくしてモーツアルトはフリーメイソンの館の住人となる。
<第四点目:政治権力とフリーメイソン>
神聖ローマ帝国(帝都ウィーン)の皇帝ヨーゼフ二世は当初は啓蒙皇帝としてフリーメイソンを保護していたが、カトリック教側からの圧力でそれまでの啓蒙路線に修正を加えざるを得ない立場になり、フリーメイソンの規制も始めだし、モーツアルトが入会する1784年頃より秘密警察が設置され急速に規制から弾圧と変わる。規制を容易にするため多く存在したフリーメイソンの活動拠点ロッジも統合されていくことになり、1790年に没するまで規制は徐々に強まっていった。この期間モーツアルトは10曲を超えるフリーメイソンを讃える曲を作曲しており、その中の歌詞は賢者皇帝の賛歌であったりするが、これは規制を強めるヨーゼフ二世に対して「フリーメイソンは閣下の称賛者であり、だから規制は強めないで欲しい」とのおもねりであったと思われる。ヨーゼフ二世からはともかくモーツアルトは帝国宮廷音楽家という名誉職の任命を31歳のときに得ているので雇用主に近い存在である。魔笛と同時期に創作された「皇帝ティートの慈悲」(1791年9月初演)も同様の意図、ヨーゼフ二世の賛歌、があった。1791年に帝位を継承した新皇帝レオポルト二世(ヨーゼフの弟)は当初、まだフリーメイソンに対する方針を決めていなかった。1791年4-10月に創作された魔笛はこの空白の時期、即ち本来啓蒙皇帝であったヨーゼフ二世没後のさてこれからフリーメイソンはどうなる?という大転換期に当たっていたわけだ。そしてレオポルド二世は翌年1792年3月に在位1年で没している。この後帝位を継いだ若いフランツ二世をモーツアルトはタミーナとして魔笛で想定していたのではないかと思われる。また魔笛に出てくるパミーナの父、夜の女王の夫はヨーゼフ二世を想定しているに違いない。そしてヨーゼフ二世は当初フリーメイソンを強く保護し、後押ししたことからフリーメイソンこそが魔笛であり、タミーノたるフランツ二世に魔笛、即ちフリーメイソンの理解者になり、支援してもらいたいという願いがこのオペラ魔笛に込められたに違いない。モーツアルトが最後の数年間、相当フリーメイソン活動に身を投じて、フリーメイソンの新ロッジ建設に奔走していたことも分かっている。その建設資金にかなりの金額を信託していたと思われる痕跡もあり、これが終盤での窮乏生活を招いた原因ともなっている。またモーツアルトが亡くなったその日にモーツアルトのパトロンであったスヴィーテン男爵(フリーメイソン会員)が密告により宮廷教育委員会委員長を罷免されている。フランツ二世の宮廷教師であったが、啓蒙思想、フリーメイソン思想をフランツ二世に吹き込んでいるというのが密告に内容であった。そして魔笛の意図とは裏腹に帝位を継いだフランツ二世はタミーノの道は歩まず、フリーメイソン撲滅の道を選んでしまうという歴史の皮肉な結果で幕を閉じるのである。
テノール・カウンターテナー ピアノ 作曲家 オペラ∩声楽曲